会津藩士が宿泊した時の様子を伝える史料
会津藩士と新撰組隊士は,元治元年(1864)6月に東九条村へ派遣されました。長州藩士の京都進攻にそなえるためです。
彼らは東九条村の民家に分かれて宿泊し,鴨川にかかる勧進橋附近の警備にあたりました。伏見から京都へ入ろうとすると,この橋が入口の一つになるからです。
会津藩士と新撰組隊士は交替で勧進橋周辺を警備し,暑い時ですから東九条村の民家で休憩していました。7月19日早朝に長州藩士は京都をめざして三か所から進撃しました。「蛤御門の変」のはじまりです。伏見の長州藩邸から進んだ一隊は,勧進橋付近で会津藩士らと戦火をまじえ,負けてばらばらになってしまいました。
当時、長谷川家には会津軍幹部が宿泊していました。その時の会津軍勢の様子が長谷川家の長男(豊太郎)・13歳によって描き残されています(下記図)。事件後、会津藩から、お礼として”花鳥図”(塩田牛猪筆)が贈られました。幹部だった木村重光の”箱書き”によると、「6月中旬から7月18日までの約1か月間、会津軍幹部が長谷川家に宿泊し、相応の接待を受け、病人も出さずに済んだ」ことが記されています。
その時の軍勢の様子を軍記の息子(第10代当主、当時数えで13歳)が描いた「会津軍勢絵巻」が残されています。隊列には198人が描かれており、当時の様子を伝える貴重な史料です。
(写真;軍列図)
また、このあたりの毎日のようすを,長谷川家の当主だった長谷川軍記(第10代)が日記で書き残しています。
<以下現代語訳>
十九日;一日の出前から当村にお泊まりになっている会津様非番のかたがたは,急にほら貝を吹き,
よろい兜を身につけ出陣された。前夜,当番のかたがたは銭取橋(勧進橋)を警備し,
非番のかたがたは伏見街道を長州勢が進攻してきたので,その方へ派遣された。
日の出前に伏見街道の筋深草あたりで大砲の音がたびたび聞こえた。
けさ御所中立売御門・蛤御門・堺町御門,以上三門で長州藩は会津藩・越前藩・広島藩・薩摩藩・彦根藩の軍隊と大砲の撃ち合いになったそうである。