長谷川良雄

長谷川家と長谷川良雄

東九条の長谷川家-庭田家の家来-

長谷川良雄

長谷川家は、嘉吉のころ(1440年頃)、奈良春日の神人から京都東九条に移り住み、農業を営んでいた、と系図に書かれています。

その後、長谷川家は、江戸時代を通じ、庭田家の家来だったとされています。明治維新までは庄屋であり、高瀬川を通じ庭田家や二条家など御所に暮らす貴族たちに年貢を納めていました。米のほか藍など商品作物も栽培する大地主となりました。長谷川家は、明治初頭に、長谷川軍記(九代当主)の後を長谷川清之進が継ぎました。清之進は、明治10年(1877)にロンドンからシルクハット、猟犬・猟銃などを輸入し、西洋かぶれの裕福な上流家庭の生活を送っていました。また、清之進は議会制度の導入に伴い、東九条村村会議員、京都府議会議員などに就任しましたが、病弱を理由にいずれも数年で引退し、以後、風流人を決め込んで優雅に暮らしていました。なお、長谷川清之進は、古くからの親戚である田中謙の長女フジと結婚し、6人の子女を授かりました。良雄は、明治17 年 (1884) 6月、三男として生まれました。

 長谷川良雄-水彩画家の誕生-

長谷川良雄は、地元の陶化小学校を経て京都府立尋常中学校(のちの府立第二中学校)に進学しました。そして、明治35年9月、フランス留学を経て帰国したばかりの京都高等工芸学校の浅井忠先生を慕って、第1期生として入学しました。浅井先生と武田五一先生に師事し、絵画・図学の教育を受けました。良雄は高等工芸学校の特待生となり、研究生として学内に残りましたが、明治40年12月に浅井忠先生が急逝されたことに伴い、学校を離れ、自宅で家業(地主業)に専念する傍ら、画業(水彩画)を継続しました。

大正7年(1918)、清之進(第10代)が死去したのち、良雄は、長谷川家の跡目を継ぎ第11代当主として家業に当たりました。家業の傍ら絵筆をとり、水彩画を描いたり、依頼を受けて絵葉書や挿絵、陶器などの制作を続けましたが、展覧会への出品などはごく稀にしか行いませんでした。晩年は地域の世話役となり、地元の京都市立陶化(とうか)小学校の校章、校旗のデザインを行ったり、地域の産土神(うぶすながみ)の宇賀神社の総代や京都府指名の方面委員などをつとめました。

長谷川良雄は、大正2年に、川端彌之助(かわばたやのすけ)(洋画家・春陽会)の姉キサと結婚しました。なお、川端彌之助は、長谷川良雄の影響を受けて洋画家になったといわれています。良雄は、妻キサが44 歳で早逝したため、後妻としてキサの妹まんを迎えました。まんは、一子(名津)を生みましたが、良雄はその後1 年を経たずに59歳で死去しました。

長谷川良雄の水彩画

長谷川家の没落-農地改革を経て-

なお、その後、長谷川の家督は長男の萬里(まさと・十二代) に継がれましたが、その萬里は、昭和18 年(1943)11 月、同志社大学専科に在学中、学徒動員令により召集され、1年余の訓練を経てフィリピン・ルソン島クラーク飛行基地守備隊に派遣されましたが、昭和20年(1945)2 月、米軍の攻撃により戦死しました。

敗戦後、長谷川家は、後継ぎを失い、また、昭和20年秋に始まった「農地改革」により所有農地の大半を失い、さらにシャープ税制改革による財産の没収もあり、没落を余儀なくされました。