長谷川家住宅の歴史と現在

はじめに

長谷川邸は、長谷川家の人々が数世代にわたり暮らしてきた農家住宅です。2012年の8月で築造270年を迎えました。祈祷札(棟札)によりますと、この家屋は寛保2年(1742)8月に建築されました。その当時の姿に近付けるため、2011年4月から1年がかりで、半世紀前の現代生活に用するために一部改修した部分を取り去り、現状復帰をするとともに、地盤沈下部分の持ち上げをするなど大規模な修復工事を行いました。

私たちは、この修復工事を終えた今、古い家並みが残る東九条の景観・文化の保存に寄与しつつ、残されていた昔の家具、古文書や長谷川良雄の水彩画などの作品の展示、手織り教室の開催などの場に利用したいと考え、新たに「歴史・文化・交流の家」として再出発することにしました。

具体的な利用については、今後、皆様方のご意見をも承りながら考えていきたいと思っています。

〔築造・修復の足取り〕

1 長谷川家住宅の創建は、屋根裏に掛かっていた棟札(愛宕山・長床坊への祈禱札)などによりますと、1742年(寛保2年)8月です。創建後の改修歴について調べました。

2 江戸後期(1850年前後)に、五帖敷とその周辺を一部改修したという記録(古文書)が出てきました。そのとき、現在の五畳敷の部屋に、茶室の機能を併設するという工事がなされたようですが、その詳細はまだ解明されていません。そのとき、各部屋の配置などは変更されなかったようで、部屋割・構造は、殆ど変えられなかったようです。

3 今から60年前(昭和35年(1960))に、「土間」を洋間に改造する工事が行われました。土間に天井を設け、応接間・アトリエ・居間・ユーテイリテイ(キッチン・浴室・洗面/トイレ)を包摂するワンフロアの広間に改造されました。しかし、この工事は、家屋の骨格を変えたものではありませんでした。

4 平成24年に、明治27年制作の展開図(長谷川清之進)をベースに、修復工事を行いました。築後300年近い木造家屋なので、その家屋としての、旧来のとを回復させることが目標になりました。なお、“修復”に際しては、渡辺一正(元鳥取環境大学教授)、石川祐一(京都市文化財保護課)、及び大場修(京都府立大学教授)の3人の先生方にアドバイスを頂きました。

〔修復後に、文化財指定〕

もとより、“修復”はお金の掛かる仕事で、その資金を調達すること自体が大変なことでしたが、作業としては目に見える形のものであり、それなりに分かり易い作業でもありました。修復工事に一年余の月日を要しました。そして、その翌年6月に、文部科学省(文化庁)から「有形文化財」として登録して頂き、また、京都市から「京都市民が残したい建物・庭園」の認定を頂きました。

〔今後の課題〕

今回の“修復”に際し、長谷川家が数百年間も東九条の地で存続し続けてきた史的意味合いについて考えてみたかったことがあります。地主として存在し続けられた江戸・明治・大正・昭和における地域と長谷川家との関係などを地域史の視点から考えることでした。

長谷川家の足取りと現在

長谷川家は、江戸時代、庭田家の家来でした。明治維新後も庄屋として村長なども務めていました。高瀬川を利用して、庭田家など御所に居をもつ貴族たちに年貢を納めていました。米のほか、藍や九条ネギなどの商品作物も栽培し、大地主となりました。明治時代には、西洋の文物を調達、英語の勉強をするなど「文明開化」の生活を送っていました。長谷川良雄(第11代)は、そういう環境の中で京都府立尋常中学校(のち、学制変更によりに府立第二中学校)に進学しました。そして、フランスでの留学を経て帰国し、京都に設立された京都高等工芸学校の教授に赴任した浅井忠先生を慕って、創立間もない同校に進学(第1期生・明治35年9月)し、武田五一先生ともども絵画・図学の教育を受けました。長谷川良雄は、家業の地主の仕事が主であり、画業は片手間のようでしたが、生涯、絵筆を離すことはありませんでした。昭和17年、57歳で病没しました。その後、長谷川家の家督は良雄の長男の萬里(第12代)に移りました。萬里は、同志社大学予科に就学中、学徒動員令により徴用され、1945年2月、フィリピンのルソン島(クラークフィールド)で戦死。跡継ぎを失った長谷川家は、良雄の長女の景子(第13代)によって継がれましたが、農地改革・税制改革によって農地・資産の大半を失うという不幸に見舞われて、没落しました。その後、景子は服飾デザイナーとなり、京都で活躍しました。現在101歳でなお健在です。今なお絵を描いたり編み物をしたり、本を読んだりしています。長谷川家住宅は、景子の妹の名津(良雄の三女)が預かりましたが、その長男も、数年前赴任先のソウルで死去。長谷川家住宅の前途は多難となりました。

今回の修復工事

長谷川家の修復工事に着手するためには、まず、母屋に居住する妻の二人の姉たちに、母屋から立ち退いてもらうことから始める必要がありました。平成11年春、長姉景子(97歳)は、すでに認知症状が出ていましたので、その治療を兼ねて東山近傍の病院に入院してもらうことにし、関係方面のアドバイスも頂いてそれは実現しました。次姉(91歳)も軽い認知症状が出ていましたが、名津の甥夫婦が同じ敷地内に屋敷を設けていましたので、母屋の西側にあった長谷川良雄の「アトリエ」を改修し、転住してもらうことにしました。修復工事の遂行のためには、それなりの資金が必要でした。私たちの手元にそれだけのお金があるわけではなく、また、行政サイドの助成制度などについての知識も持ち合わせていませんでしたので、まず手始めに、近傍にあった土地を売却しました。工事費用は、土地の売却代金だけでは賄えず、地元の金融機関に掛け合って融資をしてもらいました。工事の施工は知人の経営する建築会社にお願いしました。平成12年春に修復工事に着手しました。まず、母屋の修復工事から始めました。着工して初めて分かったことですが、平均で、南側15センチ、北側10センチの地盤沈下が生じていることでした。かつて鴨川の洪水常襲地域でもあったこの地域ですから、いわば当然のことではありましたが、そのため、母屋全体を持ち上げること(百数十本の柱をジャッキで持ち上げるという工事)が必要となりました。

歴史発掘への取組み

東九条という地域

長谷川家住宅が所在する“東九条”という地域の歴史は、遠く平安建都の時代に遡ることができます。長谷川家の近くに、九条家(藤原家)の別邸といわれる“九条殿”跡が残っています。平安遷都の際、桓武天皇が側近の九条家に羅城門の建設を命じ、九条家は東九条の地に屋敷を設け、その建設に当たったと伝えられています。なお、“東九条”には、平安時代を経て現代にいたるまで、かつての藤原家の関連寺社が残っています。私の印象に過ぎませんが、まことに奇跡的で、現在もなお、城興寺、薬院(施薬院)、九品寺など起源が平安時代に遡る藤原家ゆかりの寺院などが存続しています。“九条殿”跡には、明治6年に京都市立陶化小学校が開校されました。長谷川良雄はこの小学校の校章・校旗、校歌を作りました。妻や妻の兄姉たちは、この小学校を卒業しました、この小学校は、開校後約1半世紀を経ましたが、数年前、統合されて廃校となり、次の利用を待つ状況となっています。

宇賀辻という集落

長谷川家住宅のある土地(集落)の地名は、昔から“宇賀辻”と称されてきましたが、言い伝えでは、はるか昔、中臣鎌足が月の輪に猟遊したとき、この地に金印を埋め、「やがて、都がこの地に来る…」と言って去ったとされ、その金印が埋められた処に現在の宇賀神社があると伝えられています。宇賀神は穀物神・水の神などともされており、その関係からか、長谷川家住宅の奥庭の北東角に弁天さんが祀られています。

長谷川家のご先祖

長谷川家には系図が二本残されています。一本は、おそらく江戸時代中期に、いわゆる系図屋が作ったものと私は勝手に考えています。もう一本は、昭和11年に長谷川良雄が作成したものです。先代が積み重ねた先祖探し作業を良雄がまとめたもの…と考えられます。この二本の系図に共通する点は、長谷川家の先祖が「藤原鎌足」に由来する…としていることです。飛鳥時代、この地域(京都市南部)が奈良の貴族たちの狩猟地、あるいは遊猟地であったことが伺われます。伏見の稲荷神社の創生の言い伝えとも重なっています。もう一本の系図では、より実しやかな記述に踏み込んでいます。桓武天皇の右大臣であった藤原内麿が長谷川家の“大祖”であると書かれています。もちろん、今さら証明できるものはありませんが、なんだか真実味が出てきたようにも感じられます。なお、この系図では「嘉吉の頃、春日の神人より至る…」と記されており、室町時代(1440年頃)に、奈良から宇賀の地に移り住んだ!ことが推測できそうな記述になっています。なお、長谷川家のお墓で現存するものは三つばかりありますが、古いものでも「正徳元年」(1711年)程度であり、それ以前の歴史は、宇賀神社の近くにある長寿院(浄土宗)の記録によるしかありません。なお、同寺の記録では、1730年代に長谷川家から同寺に出家した男子(超我)が居た旨が書かれています。

長谷川家住宅

修復工事の過程で母屋の天井裏から新築時の棟札が出てきました。棟札は二通。一つは着工時の祈祷札、もう一通は工事完了時の祈祷札。いずれも京都の西方の愛宕山にあった“長床坊”というお寺(明治2年“神仏分離令”により廃寺(破壊)され、代わって「愛宕神社」が設けられた。) で祈祷してもらった木札です。祈祷札には数珠が掛かっていました。この二つのお札から、母屋が寛保元年(1742年)に着工し、翌年秋に完工したことが明らかとなりました。施主は「長谷川半助」と書かれています。なお、今回の修復工事の過程では、座敷の天井裏の垂木に、材木搬入メモ(宇賀辻の長谷川半助(初代)に、用材として搬入する旨を墨書したもの)も出てきました。また、新築直後に備えられた仏壇(寛保3年3月)からは、本願寺の第17世法主“法如”ご署名の『御文』なども出てきました。

地域史への模索

東九条の地域史といえば、まず、①どんな農業が営まれていたか(農業)、②人々の相互の繋がり方はどうか(社会関係)、③お役所(権力機関)と関係はどうか、といった三つの側面からの接近が当面、必要ではないかと考えています。

1 農業については、地形的に考えて米が主体であったとことは確かですが、昨今有名になった九条葱の原産地であったことは指摘できますし、同時に、慈姑、京人参の産地でもあったことも言えます。また、江戸末期から明治にかけては藍の栽培が行われ、京染の発展の一翼を担ったことも確かでしょう。こうした農業の形成・発展過程をたどることが必要だと思います。それにつけても、関連する事柄では、高瀬川の開通の影響(水運利用、物流の変化)に刮目する必要があると思います。

2 人々の社会関係ですが、築200年以上の大きな農家住宅が近隣になお幾つか存在していることを考えると、その背景には、江戸期におけるこの地の農業社会が、百姓―地主―領主という単純なヒエラルヒーで考えるのではなく、洛中との交流関係、神社仏閣との関係、とくに御所を中心とする貴族たちとの相互関係にも着目する必要があるのでは…というのが最近の感想です。

3 権力との関係では、もちろん幕府・京都守護職などとは、お奉行様を通じての関係はありながらも、御所・貴族に年貢!を納めていたという関係で、当然、普通の農村における権力関係とは異なるものになっていた…とも考えられます。とくに、長谷川家の場合、お雛様や五月人形に、貴族文化の影響を見られるなど興味深いものがあります。

長谷川家の古文書等

東九条の近世に関しては、『京都市史』(平凡社刊)においてある程度の発掘・記述がさされていますが、まだまだその史的状況を物語るものとしては不十分だと思います。よって、長谷川家住宅に残されてきた書物、文書、日記類などの記録類による歴史事実の発掘・解明が大いに期待されるところです。目下、数名の研究者によって調査を進めて頂いておりますが、今後、それらの文献等による詳細な歴史的事跡の解明・調査が期待されます。

なお、蛤御門の変(元治元年1864)の際、東九条の里に駐屯した京都守護職松平容保の軍勢(神保蔵介卿家老の198名の隊列)の絵巻物や、嘉永6年にペリーが率いた4隻の軍艦(「太平のねむりを覚ます上喜撰、たった四杯で…」)で来訪し、幕府に提出したアメリカ大統領フィルモアの親書を幕府が受理した場所(栗が浜)を含む当時の江戸湾の状況図なども出てきました。

ちなみに、長谷川家住宅に残された古書籍(江戸期)は全部で4,800冊ほどあります。例えば、江戸初期に出版された『古事記』、『日本書紀』、『倭名類聚抄』、『新撰姓氏録』、『北斎漫画』(15巻)、貝原益軒の『女大学宝筐』、『絵本楠公記』、『絵本太閤記』や、日露戦争時の刻々の戦況を紹介した「戦時時報」誌などもあります。地図では、「中昔京師地図」、「高瀬川図」;高瀬川の沿線(二条通り~伏見淀川口)を描いた全長約8メートル、北方四島が我が国固有の領土であることが分かる「蝦夷輿地全図」、竹島が日本領であることを表示した「新刊輿地全図」(文久元年刊:オランダ地図)、「江戸図」、「伏水図」など。

(中川聰七郎 述)